2014年08月10日

スポルティーバ(アリーナ)の歴史:3 2010年 新要素・キーパーソンの登場

2010年になり、スポルティーバ(アリーナ)はさらに活発化していきます。

まず、2010年1月10日に「今池プロレス商店街2」が開催されます。
これは、今池プロレスが団体として活動することを宣言した大会です。
とはいえ、興行のプロデュースはスポルティーバが継続して行い、
現在に至ります。

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1/10 今池プロレス 今池プロレス商店街2 今池ガスホール から

この大会では、ノリ・ダ・ファンキーシビレサス(nobodyknows+)が
マグナム今池の後輩にあたることから、ゲスト解説として登場し、
メインイベントでマグナムを助けるため、ゼットンにドロップキックを
放ちました。これが後のスポルティーバマットに大きな影響を与える
きっかけとなりました。

2月に入り、「カレーを食べながら、プロレス観戦しよう」という
キャッチコピーで、スポルティーバアリーナでは毎週水曜日20時開始の
定期興行「水曜カレープロレス(仮)」がスタートされます。

チームでらに所属せず、スポルティーバ預かりになったSHIGERUや、
佐藤泰など金プロに出場しない選手や、デビューしたばかりの
彰人らが試合機会を求めて出来たブランドです。

佐藤泰と彰人はほぼフル出場、SHIGERUやゼヴィウスも準レギュラーと
して出場し、派手さは無くとも各選手の勝利への執念や、技術の向上
など、試合の度に成長し続ける姿を見せる場として確立していきます。
特に彰人は、他のスポルティーバ興行にもほぼフル出場を続けていた
ため、名古屋で最も短いキャリアでありながら、最も試合数の多い
選手になり、これが後に大きな意味を持つことになります。

これでスポルティーバアリーナでは、毎週水・金(月末のみ最終土曜)の
興行に加え、チームでらや鎌倉一番(現:かまくらマスク)興行なども
開催され、さらにユニオンプロレスの興行なども開催され、にぎわいを
見せるようになっていきます。

3月中旬より、入江茂弘が「DDT留学のため」、拠点を東京へ移します。
入江の名古屋でのレギュラー参戦は無くなるもの、不定期といえ頻繁に
戻って試合を続け、それは今でも変わっていません。

そして、2010年5月5日に「愛プロレス博2010キセキ」がZepp Nagoyaで
開催されます。第1試合では彰人が初勝利を挙げ、第6試合では
ノリ・ダ・ファンキーシビレサスが今池プロレス所属として
プロレスデビューを果たしています(時間差バトルロイヤルで
GENTAROに敗北)。

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5/5 愛プロレス博 2010 キセキ Zepp Nagoya から

また、メインイベントでは久保田ブラザーズと、同日愛知県体育館での
試合を終えて移動したばかりのCIMAとGammaが対戦しています。

6月に入り、若手選手のみによるリーグ戦「若鯱リーグ戦」が開催されます。
「若鯱」は、2008年11月24日に開催された「愛プロレス博外伝・若鯱」に
由来し、スポルティーバマットで戦う若手選手を総称する表現です。

彰人に加え、影山道雄(現チームでら、当時はDEP)、杉浦透(現FREEDOMS、
当時はDEP)、棚橋裕士(柴田道場)の4選手で行われ、6月の土プロDXの
メインイベントで決勝戦となりました。

若手同士、それもデビュー1年未満同士の選手のシングルマッチでメインと
いうのは、名古屋では異例でした。しかし、これをきっかけに若手選手を
積極的にメインに登用し、経験を積ませるスポルティーバの指針が生まれ、
後に続いていきます。

また、6月からSHIGERUが欠場し、代わる形となってノリが
レギュラー参戦を始めます。
芸能人のプロレス参戦は、珍しくありませんが、ひとりの
選手として、ほぼ毎週のペースで定期的に試合を行っている
のは、おそらくノリだけでしょう。

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6/16 水曜カレープロレス(仮) Sportiva Arena から

しばらく、佐藤・ゼヴィウス・彰人・ノリの四者を中心に、
参加選手数は少なくとも、密度の高い戦いが繰り広げられ、
水曜日の空気感を醸成する期間となっていきます。

2009年8月15日には、今池プロレス「今池プロレス商店街」が
開催され、ノリ・ダ・ファンキーシビレサスと彰人がタッグを
組んで、GENTAROと高尾蒼真を相手に戦っています。

スポルティーバアリーナで時折行われていた特殊エニウェア
マッチのSRS(Survivor of the Ring Side)ですが、その原型とも
言える試合が、2010年9月10日の金プロで行われます。

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9/10 金プロだよ!!全員集合 Sportiva Arena より

この時期の高井憲吾は、試合中にアイテムとしてトレーニング用
ゴムチューブを使っていましたが、それを会場内で正方形に伸ばし
「ホフアリーナ」と称した、場外リングを作り、そこで戦いました。
これはあくまでも場外戦のひとコマでしかありませんが、客席全域を
戦場にする、SRS誕生以前に行われていたことになります。

2009年9月20日には「マンモスジャパンツアー」が開始します。
澤宗紀(引退)の持ち込み企画で、澤とマンモス半田が全国
47都道府県を周りながら試合を行うものです。

澤は、2008年4月26日の「恋プロ'08」からスポルティーバ
興行によく参戦していましたが、2010〜2011年にかけて、
スポルティーバ興行における重要人物のひとりとなります。

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9/20 マンモスジャパンツアー2010 Vol.1 Sportiva Arena より

11月になり、デビュー1年を迎えた彰人に過酷でありながらも、
素晴らしい経験を積むこととなる期間が訪れます。前述の通り、
スポルティーバは、若い選手に次々とメイン登用や、大物との
対戦機会を与え、成長を促していく団体ですが、その指針を
真っ先に体現したのが彰人です。

ビリーケン・キッド(大阪プロレス 当時)や澤宗紀などとの
シングルマッチが続いていきます。彰人は愛プロで初勝利を
アンクルロック(足首固め)で得てから、急成長を遂げますが
このシングル連戦でさらに成長を続けます。

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11/10 水曜カレープロレス(仮) Sportiva Arena より

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11/27 土プロDXだよ全員集合!! Sportiva Arena より


2010年は、後のスポルティーバ興行の指針やコンセプトなどの
叩き台と、彰人・ノリ・澤らのキーパーソンが現れた一年でした。

次回のエントリは、2011年についての予定です。
スポルティーバ史上最多の興行が開催され、スポルティーバの
特徴である、瞬発的な判断と実行がいかんなく発揮される年です。

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posted by たこ焼きマシン at 11:46| Comment(0) | スポルティーバの歴史

2014年08月09日

スポルティーバ(アリーナ)の歴史:2 2009年 でら名古屋プロレス休止、そして挑戦

前回のエントリでは、スポルティーバアリーナオープン前後に
ついて記述しました。今回は2009年の出来事についてです。

また、エントリのタイトルですが、アリーナ以外での事象も
大きく含むことから、スポルティーバエンターテイメントと
アリーナ、名古屋のプロレスも含む形に改題しました。

▼興行の増加/模索期
2009年に入り、でら名古屋プロレス以外の興行が多く開催
されるようになっていきます。

後のチームでらの「プチでら」に繋がっていく「プチHOF」や、
斉藤代表がとつぜん開催を決定し、突発的に行う興行の第1弾
「節分プロレス」など、後々の前身となる興行が開催されました。

また、初の東海地区以外の団体の興行も開催され、
ガッツワールドが使用しています。

1/25 高井憲吾自主興行 プチHOF 1st Sporiva Arena
2/3 節分プロレス Spotiva Arena
2/27 ガッツワールド Sportiva Arena
3/14 愛プロランブル Sportiva Arena

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2009年2月3日 節分プロレス から
※ケニー・オメガ vs 入江茂弘 ワンマッチ興行

でら名古屋プロレスのハウスショーがハウスバトルに
改称され、ほぼ毎週ペースで興行が開催されるようになり、
月末には拡大版のスペシャルハウスバトルも開始し、
後の「金プロ」や「土プロDX」の前身になっています。

スポルティーバアリーナは会場としての稼働率が高くなり、
でら名古屋プロレスの認知度も上がっていきますが、
ここで大きな転機が訪れます。

▼でら名古屋プロレス活動休止
2009年4月、当時の社長が大麻取締法違反で逮捕されました。
大きく報道され、直近の興行が中止されます。

社長は後に不起訴処分となりますが、事態の重大さから、
でら名古屋プロレスは活動休止することと、同年7月26日の
一周年興行が無料の最終興行なることが発表されました。

▼金プロ開始
この事件で、名古屋のプロレスが負った傷は深く、
でら名古屋プロレスやスポルティーバは後援者や
自治体との協力を大きく失うことになります。

そんな中、スポルティーバやDEPの選手たちが中心となる
「金プロだよ、全員集合!!」(金プロ)が開始します。

ハウスバトルではほとんど無かったスキットや、
コミカルな要素も加わったパッケージ興行です。

▼プロレスは裏切らない
名古屋のプロレスが再始動する中、2009年5月3日に
「愛プロレス博2009 〜勇気〜」が開催されます。

高井憲吾 入江茂弘 vs 大谷晋二郎 田中将斗が
セミファイナルとして組まれ、高井と入江が
復帰戦というには大きすぎる相手と戦っています。

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2009年5月3日 愛プロレス博2009〜勇気〜 から

大谷が試合後、「プロレスは絶対に裏切らない」と
エールを高井たちに贈っていますが、これは名古屋の
プロレスファン全体に対してのメッセージとして
考えても勇気を与える言葉でした。

また入江は、後にKO-D無差別級王座を獲得した時から、
決め文句として大谷のこの言葉を用いています。

愛プロレス博2009 勇気 エンブレム登場
5/3 愛プロレス博2009 〜勇気〜 Zepp Nagoya


▼再始動〜挑戦
でら名古屋プロレスが最終興行を行いつつも、名古屋の
プロレスは活動を止めることなく、再始動します。

スポルティーバアリーナでは「金プロ」「土プロDX」の
定期開催が完全に定着し、でら名古屋プロレスの後継
団体となる、チームでらの"再"旗揚げ戦も行われます。

7/26 でら名古屋プロレス 最終興行 中村スポーツセンター
9/19 チームでら 『RE:START』 Sportiva Arena

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2009年7月26日 でら名古屋プロレス 最終興行 から

ほぼ毎週試合を行うことから、選手たちの技量が
大きく上がり、他団体が名古屋で興行を行う際にも
当たり前のように参戦していきます。

スポルティーバは後に様々なイベントのプロデュースも
行うことになりますが、その最初期として行われたのが
「今池プロレス商店街」でした。

5/24 今池プロレス商店街

そして、彰人が入門し、練習・エキシビションマッチを続け、
後輩選手たちもデビュー前に同様の経験を積む慣例を
つくることとなりました。

そして、2009年11月23日「愛プロレス博2009 挑戦」が
Zepp Nagoyaで開催されます。でら名古屋プロレスの
コンセプトであった全試合対抗戦となる、初の愛プロです
(勇気は、ウルトラマンロビンvsエイリアンガッツの
SGP対決があったため)。

この日の第5試合で、彰人のデビュー戦が行われました。
名古屋のプロレスの歴史において、デビュー戦が
ビッグマッチの第5試合、かつ相手が当日発表、と
いうのは前例が無く、すべてが初めて尽くしでした。

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2009年11月23日愛プロレス博2009〜挑戦〜 から

対戦相手は、大谷晋二郎(ZERO1)でした。
試合は彰人がひたすら大谷の厳しい攻めを受け続ける
だけのものでしたが、この日の試合中もっとも声援を
受けたのも彰人でした。

先に述べた様に、彰人のデビューはあらゆる面で名古屋の
プロレスの歴史には無かった要素(毎週のエキシビション、
伊東竜二など所属外の選手とも行う、対戦相手が当日発表)
などが付随しており、他地区のローカル団体でもほとんど
見られないケースでした。

この前例に囚われず、愛プロの副題通り挑戦的な試みを
続ける、スポルティーバの方針が生まれたのが2009年です。

そして、スポルティーバの更なる挑戦として全く新しい
ブランドが生まれ、それを支える新たな主力選手たちが
現れる2010年へと時は流れていきます。

次回のエントリでは2010年について書く予定です。

※エントリタイトル改題、写真とリンクの修正をしました。

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posted by たこ焼きマシン at 19:36| Comment(0) | スポルティーバの歴史

スポルティーバ(アリーナ)の歴史:1 2007〜2008年オープンに至るまで・黎明期

スポルティーバエンターテイメントの、リング常設会場である
スポルティーバアリーナが2014年8月3日に、契約満了に伴い
閉鎖となりました。

同会場のオープンから、閉鎖にかけての歴史を簡単に
振り返ってみます。


▼オープンに至るまで
前身となる、スポーツバー「スポルティーバ」は
名古屋市中区矢場町に居を構えていました。

スポルティーバが初めて興行を行ったのが、
2006年11月11日の「愛プロレス博」(Zepp Nagoya)です。

その後、名古屋市中区大須で「恋プロ」(公武堂タイガーホール)や
第2回の愛プロレス博など興行を重ねていきました。

転機となったのは、2008年6月の「でら名古屋プロレス」設立です。
同団体は、DDTの高木三四郎が監督、元DDTでガロガ騎士'sを退団した
高井憲吾をコーチとして設立された、地域密着型ローカル団体です。

同団体は、旗揚げまで東海プロレス道場などで練習をしていました。
でら名古屋プロレスの道場と事務所を兼ねる形で、開設されたのが
スポルティーバアリーナです。

かつて、共同企画(新日本プロレスの東海地区での興行を主催する
プロモーション会社)が運営していた、闘魂SHOP名古屋店が閉店して
おり、その跡地に入る形になりました。

それに伴い、スポルティーバエンターテイメントも団体として発足し、
ヒデ久保田とヤス久保田の「久保田ブラザーズ」やマンモス半田らが
所属選手となっています。

▼オープン後(2008年〜)
スポルティーバアリーナが本格的にプロレス会場として運営される
のは、でら名古屋プロレスのハウスショー(後にハウスバトルに改称)の
会場として使用されるようになってからです。

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2008年9月14日撮影

9/14 でら名古屋プロレス ハウスショー

でら名古屋プロレスは、単なるローカル団体としてでなく、より
地域に根ざした形をとるため「全試合対抗戦」というコンセプトを
打ち出していました。

大きな会場での本戦は他団体との対抗戦、それに至るまでは月に
1〜2度のハウスショーで同門対決し、経験を積んでいきました。
高木三四郎、高井憲吾、SHIGERU(引退)以外は、新人選手で
構成されていたため、試合経験を積むことが重要視されていました。

しかし、でら名古屋プロレス所属の選手のみでは、興行が行える
ほどの選手が足りず、スポルティーバエンターテイメントの選手も
ハウスショーに参戦するようになります。

スポルティーバアリーナは、でら名古屋プロレス以外の興行も
行われるようになっていきます。

例:
9/27 恋プロ08夏〜少年時代〜
12/12 ミスター6号バースデーパーティー
12/22 高井憲吾自主興行 HOFプロレス

次回のエントリでは、2009年のでら名古屋プロレス活動停止から
金プロ開始について記述する予定です。

※エントリタイトルを修正しました。

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posted by たこ焼きマシン at 17:38| Comment(0) | スポルティーバの歴史